フルフェイスのシールドを跳ね上げると、ヘルメットの中に梅雨前の湿った風が流れ込んできた。
バイク便ライダーとして走り始めて半年。今日の配送先は、見慣れたオフィス街の、見慣れたビルだった。半年前まで私が、擦り切れるような毎日を過ごしていた場所だ。
お届け物は「至急」の赤シールが貼られた、契約書の入った厚手の封筒。 バイクを停め、背中の大きなデリバリーバッグから荷物を取り出す。胸の奥が少しだけざわついた。
エレベーターを降りて自動ドアをくぐると、懐かしい静寂と、キーボードを叩く乾いた音が耳に飛び込んできた。 「お疲れ様です、バイク便です」
声をかけると、受付の奥から一人の男が顔を上げた。かつての同僚だった。 彼の顔を見て、胸が締め付けられるような懐かしさと、切なさが込み上げる。そこにいたのは、鏡を見るようだった。目の下にクマを浮かべた、典型的な徹夜明けの顔の仲間。かつて私も、そのグラデーションの一部だったのだ。
「あ、ありがとう。助かったよ、本当に急ぎでさ……」 同僚は疲れた声で言いながら、受領印を押し、ふと私の顔を見た。その目が驚きでわずかに丸くなる。 「え……? もしかして、君なのか?」
「ご無沙汰しています。お元気そうで、と言いたいところだけど、相変わらず忙しそうだな」 私は精一杯の笑顔を返した。
彼は信じられないというように、私のライディングジャケットと、脇に抱えたヘルメットに視線を往復させた。 「なんだよ、そんなにまじまじと見て。恥ずかしいじゃないか」と私は笑った。
「驚いたな……。でも、なんだか、すごくいい顔をしてる」 同僚の言葉は本音のようだった。
確かに、今の私はあの頃とは違う。 時間に追われる過酷さは同じかもしれない。けれど、渋滞をすり抜け、最短ルートを計算し、誰かの「困った」を圧倒的なスピードで解決するこの仕事に、私は誇りを持っていた。何より、自分の意志でハンドルを握り、風を切って走る爽快感が、私の心を生き返らせてくれた。
「うん。迷ったけど、好きなことを仕事にした今の生活に、結構満足してるんだよ」
「……そっか。なんか、羨ましいよ」 徹夜明けの同僚の顔に、少しだけ柔らかい笑みが浮かんだ。 「ありがとう。この書類のおかげで、僕の仕事も一つ片付きそうだ」
誰かの必死な想いが詰まったバトンを、次の場所へ確実に繋ぐ。バイク便は、ただの配達員じゃない。ビジネスの、そして誰かの日常のピンチを救うヒーローなのだと、彼の感謝の言葉が改めて教えてくれた。
「それじゃ、お先に失礼します。体、大切にしてくださいね」
オフィスを後にし、再びバイクに跨る。エンジンが心地よい鼓動を立てて目覚めた。 ギアを1速に入れ、アクセルを開ける。次の「誰か」のピンチを救うために、私はまた、眩しい光が差し込む街へと駆け出した。
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